Friday, June 24, 2011
恩讐の彼方に キリスト者となった淵田中佐
先回のブログで淵田中佐に触れましたけれど、改めてこの方の生涯を見てみますと、とても深い生き方をした方であることがわかりました。
30年以上も前に、NYで息子さんにお会いした時、中佐が戦後、宣教師としてアメリカで活躍されたと聞いて、アメリカ人である夫も私もとても感動したのですけれど、そのままで終わっておりました。
今再び私が出会ったこの方、淵田中佐がキリスト者として歩み始める事となった第一のきっかけは、アメリカ軍の捕虜になっていた日本兵から聞いた話、マーガレット コベェルと言う若い女性の話でした。
この女性の両親はアジア方面を担当していた宣教師でしたけれど、フィリピンで日本兵に殺されました。
殺される直前、彼女の両親は聖書を読み敬虔な深い祈りを捧げたそうです。
当然、マーガレットの日本人に対する憎しみ、怒りは大変なものでしたけれど、宣教師としての両親の生き様を思った時、彼女の憎悪は、「恩讐を愛する」 思いへと変わり、其れを実践するべき生き方すなわち、敵兵を看護する道を選びました。
彼女の看護は、そこに居合わせた日本兵全てを感動させた、心を尽くした看護であったと言うことです。
この話は、この時の中佐の理解を超えたものであったそうですが、彼の心に一粒の種が蒔かれたと思われます。
*マーガレットの両親コベェル夫妻は日本では、ミッション スクール横浜関東学園の宗教主任であったそうです。この学校を戦死した私の父が出ているので、もしかしたら知っていたかもしれないと、とても因縁じみたものを感じたりもします。
次に中佐を待っていた神様からのメッセンジャーは、渋谷駅前でパンフレットを配っているアメリカ人でした。
手渡された、そのパンフレットは 「私は日本の捕虜でした」 と題されており、配っているアメリカ人は、東京爆撃隊の爆撃手であった、J. デシェーザーであり、彼の手記でした。
そのデシェーザー氏が若きGIであった時、真珠湾攻撃を知り日本打倒の闘志に燃え、東京大空襲の部隊に入隊しました。
* この頃横浜にいた私たち家族は、父親は出征しており、母に背負われた私、仏壇を背負った祖母がB29の絨毯爆撃から逃げ惑っていたのでした。
デシェーザー氏は、東京、横浜大空襲後、日本軍の捕虜となり、彼の2年あまりの悲惨な捕虜生活は、さらに日本に対する憎悪を増し加えました。
その悲惨な生活の中で彼の脳裏に蘇ってきたのは、幼い頃聞いたイエス様のお話でした。獄中やっとの思いで彼は聖書を手に入れ、その教えに導かれてキリスト教徒になりました。
アメリカに帰国後、宣教師としての道を選んだ彼は、かっての敵国日本を訪れ、神様の愛を伝えていたのでした。
このような道を通して、淵田中佐は戦争と言う人類最大の悲劇の中に自身が置かれ、人間同士のあらゆる憎悪を体験してきたなかで、自らの行くべき道を見出しました。
やがて宣教師として、日本国内のみならずアメリカ、ヨーロッパへと宣教して回られました。
私は、アメリカ人が今なおかつ屈辱のパールハーバーとして語り伝える、その総大将であった淵田中佐が宣教師としてアメリカを訪れた時のアメリカ人の反応、更にお父様の後を追ってアメリカに来るられた、息子さんと娘さんがどの様に扱われたかを知りたいと思いました。
アメリカで淵田宣教師は 「パール ハーバー」 の英雄として歓迎されたということです。
息子さんと娘さんは夫々アメリカ人と結婚され、まさに恩讐を超えた人類一家族を実現されました。
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment