Friday, December 21, 2012

誠を尽くす





私たちはあらゆることに精一杯の誠を尽くすべきです。

それも一日、二日ではなく、つねにそうすべきです。

刀は一度使っただけで磨かないと、切れ味が悪くなってしまいます。

誠も同じです。

毎日刀を研ぐと言う心で、絶え間なく継続すべきです。

どんなことでも誠を尽くせば、我知らず神秘の境地に入っていくようになります。

筆を握った手に誠心誠意の一念を込めて、
「この手に偉大な画家が降りてきて私を助けよ」と祈りつつ精神を集中すれば、
天下の耳目を驚かすよう絵が生まれます。

Tuesday, December 11, 2012

自己主管

マイ仏像


宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ

先に心身を鍛錬してこそ、次には国を救い、世の中を救う力も持てる、という意味です。

”平和を愛する世界人として” より

Tuesday, December 4, 2012

知恵のある人



知恵のある人は、どんなに困難でも、未来への希望を抱いて黙々と歩いて行きますが、愚かな人は、目の前の幸福の為に未来を無駄に投げ捨ててしまいます。

私も若い盛りには愚かな考えに染まったこともありましたが、結局は、知恵ある人が行く道を選択しました。

神が願う道を行くために、一つしかない命を喜んで捧げました。

”平和を愛する世界人として” より

Tuesday, November 27, 2012

草むらの虫と交わす宇宙の話 4




春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることが出来なければなりません。

自然との交換を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。

道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも尊いのです。

自然を愛し、人を愛することの出来る心を備えておくべきです。

自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。

神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実態的な存在です。

万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。


”平和を愛する世界人として”より

Tuesday, November 20, 2012

草むらの虫と交わす宇宙の話 3


自然はあらゆる要素が一つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。

自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を振るい立たせました。
大都市に生きる最近の子供達は自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。

自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか、せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。

そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。

”平和を愛する世界人として" より

Tuesday, November 13, 2012

草むらの虫と交わす宇宙の話 2



「虫たちと一体どんな話をするんだ!」
と疑うこともできますが、ちっぽけな砂粒一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。

私たちの周りに存在するすべてのものは、創造もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。

また、その力は密接に関連して相互につながっています。

大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。

木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。

"平和を愛する世界人として” より

Sunday, November 4, 2012

草むらの虫と交わす宇宙の話 1

森の中の石橋と滝
森の中にいれば心が澄んできます。
木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場で鳴くカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。

そこで、心をがらんとあけ、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。
自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。
自然と私の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。
自然が私になり、私が自然になるのです。 

私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。
今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになる状態が訪れます。
ある人は無我の状態だともいいますが、私を完全に解放したところに自然が入って来てとどまるのですから、事実は無我を超えた状態です。
その状態で、自然が話しかける音を聞くのです。
松の木が出す音、草むらの虫が発する音。
そうやって私達は友達になります。

"平和を愛する世界人として”より

Monday, October 22, 2012

精神統一


精神を統一し、集中して思念すれば、全部分かります。
取るに足りない蟻でさえも、梅雨の始まりを知って前もって避難するではありませんか。
人間も自分の行く道を、先んじて知らなければなりません。
カササギの巣を詳しく観察すれば、風が何処から吹いてくるかを知ることが出来ます。
どこからか風が吹いてくれば、カササギはその反対に入り口をさっと作っておきます。
家の軒のように、雨水が一箇所にだけ流れるようにするのです。
カササギもこれだけの生きる知恵があるのに、人間になぜそういう能力がないのでしょうか。

牛を愛すれば牛が見えるのです。
この世で最も力強いのが愛であり、一番恐ろしいのが精神統一です。
心を落ち着かせ静めていくと、心の奥深いところに心が安らぐ場所があります。
その場所まで、私の心が入っていかなければなりません。
心がそこに入って眠って目覚める時には、精神がとても敏感になります。
正にこのとき、雑多な考えを排除して精神を集中すれば全てのことに通じます。
疑問におもぅたら、今すぐにでもやってみたらよいでしょう。
この世の全ての生命は、自分たちを最も愛してくれるところに帰属しようとします。
ですから、真に愛さないのに所有し支配することは偽りなので、いつかは吐き出すようになっているのです。

”平和愛する世界人として”より

Monday, October 15, 2012

平和



希望のない世界、愛のない世の中を治療しようとしたら、私たちはもう一度、幼いころの純粋な心にもどるしかありません。

際限のない欲望から離脱して、人類の美しい本性を回復するためには、幼いころ、父の背におぶさって学んだ平和の原理と愛の息遣いを生かすことが必要なのです。

平和を愛する世界人としてより

Monday, October 8, 2012

平和

 

お互いを認め合い助け合って生きる。 

- これが宇宙の真理です。


取るに足りない動物も其のことを知っています。
植物を見ても分かることです。
お互いにためにいきながら、共に生きることが正に宇宙の原理です。

平和を愛する世界人として


Monday, October 1, 2012

平和

私が森を愛したのも、其の中に世界のすべての平和に通じるものが宿っていたからです。
森の中の生命は争いません。
勿論互いに食ったり食われたりですが、それは空腹でしかたなくそうしているのであって、憎しみからではありません。
鳥は取り同志、獣は獣同士、木は木どうし、互いに憎しみは在りません。
憎しみがなくなれば平和がやってきます。
同じ種同士で互いに憎しみ合うのは人間だけです。
国が違うと言っては憎しみ、宗教が違うと言っては憎しみ、考えが違うと言ってはまた憎しむのです。

平和を愛する世界人として







Monday, September 24, 2012

親の愛  父の背中

子守地蔵

私を呼ぶ声ですぐに目が覚めても、
寝ているふりをして父に背負われていった気分、

何の心配もなく心がすっと安心できる気分、
それこそがまさしく平和でした。

そのように父の背中に負われて平和を学びまし
た。

Monday, September 17, 2012

親の愛


親の愛とは、絶対不変であるので子供は親を信頼できるのです。


この言葉は誰に言われたわけでもなく、物心付いた以前以後、私にとっては当たり前のことでした。我が家は特別、恵まれた幸せな家庭と言う形態をしていたわけではありませんでしたけれど。

大きくなるにつれ、多くの人がそうではないと知ったときはなぜそのようになるかと驚くと同時に、人として生まれ、親子の信頼関係をもてない人の不幸をとても気の毒に思いました。

生きとし生けるもの、絶対不変な親の愛を呼吸したいと思う心は不滅であると思います。

Monday, September 10, 2012

そうか あなたは もういないのか




”そうか あなたは もういないのか”


この言葉は何方か、愛する妻が他界された方の言葉です。

私の人生にこの上ない素晴らしい、生き方を示してくださった方。

”親”


長い間遠く離れて暮らし、時たまお会いできた方。

何故か、永遠に共に暮らす人と思っていました。

其の方が他界されたとき、いつも一緒にいたわけではないので、
実感するのがとても難しいけれど、其の面影を思うとき、

”そうかあなたはもういないのか”

其の言葉が、懐かしも寂しく心を打ちます。

それであるけれど、其の生き方は永遠に私から離れることはありません。

Monday, August 27, 2012

家族団欒






家庭とは、愛を教えるところではありませんか

マザーテレサ

日本の男性たちは毎日遅くまで働いていますけれど、良い時間と彼らの多くが思っているのは仕事をしているときよりも、家族と一緒にいるときだと回答するそうです。

アメリカはどうでしょうか。
fireside この単語は一家団欒という意味ですけれど、あまり耳にすることはありません。
それでも子供が小さいときは、家族は仲良くしているように見えます。

子供たちが運転を出来るようになった時、あちこちに散らばっていくといいます。

その時までが、勝負ですね。
良い家庭は良い社会を築き、よい社会は良い国家を築き、よい国家は良い世界を作る。

人のために生きる

掃除小僧
掃除小僧

人のために生きることが生活化されていなければなりません。

この公式は、何処に行っても適用されます。

人のために生きようとするので、朝早く起きて掃除をし、汚れている場所をきれいにしてから、その日の仕事を始めるのです。

良い言葉です。

学校や会社では苛め国家では戦争。
気が重い話ばかりです。
どのように解決するかと話はたくさん出るし、イジメッコの遺伝子や脳の働きや細胞の話もたくさん出るけれど、 私の中で行き着く先は心と体の掃除を日々実践するということに帰結します。

Monday, August 20, 2012

階前の五葉すでに秋声

      偶成  (朱喜) 

     少年易老学難成 

     一寸光陰不可軽 

     未覚池塘春草夢 

     階前五葉巳秋声 


秋立つ日も終わった晩夏の日々、
学校もすぐ始まるし、
人々が普通の生活に戻ります。
にぎやかだった海辺も静まり返り、
夏の終わりの侘しさに、
時のたつ早さが
ことさらに身にしみるこのときです。

Monday, August 13, 2012

私の存在


”自分の生活で繰り広げられるすべての内容は、世界と関係する現象として残る”

 私は単なる市井の平凡な者だけれど、自らを過去と現在と未来の立場に心の存在位置を立てようとする意識があるならば、それは十分に可能であるということですね。


Monday, August 6, 2012

8月15日

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戦争はもとより困難なことに対決して、人はどのように対処するでしょうか。

シリヤの戦火の元、逃れ逃れて生き延びた女性の一人が 「神がどこにいるか」 とつぶやいていたという記事を読みました。

そのような体験だけをした人が知る、心の嘆きです。

8月15日敗戦記念日を迎える日本も、高齢者は戦争を体験してきました。

その中の一人、私たちの身近に居られる方はサイパン島生まれの方です。

サイパンや沖縄と聞けば、「戦争のときは大変でしたでしょう。」 と私たちの年代は話が始まります。

この方はその当時は5歳か6歳の少年だったのでしょう。
親たちは自決するために、子供たちを連れてクリフにたどり着いたそうです。
その辿り着いたクリフが余りに高かったので、小さい子供であったこの方は怖くて飛び降りることができずにいると、親はナイフで彼の喉を切った後、クリフから身を投げたそうです。
程なくやってきた米軍にこの方は一命を救われ、収容所で暮らしていたその時、従軍牧師が神様について語ったけれど、自分の親や知人が目の前で果てたのに、どうして神様の存在を肯定できるものかと、その時は強く否定したそうです。

そうは言ったものの、何かが心に残り、もしかしたら、アメリカに行ったら何かよいことを知ることができるかもしれないと、ここかしこ伝を頼りにアメリカに渡ってきたということです。

キリスト教に帰依することはなかったけれど、全てに感謝しよい行いをすることに心がけ今日にいたり、「沢山の孫たちに囲まれとても幸せだ。」

と言われるそのお顔は、とても穏やかなよいお顔です。

肯定的に、人生に対することができる人は幸いですね。

Monday, July 30, 2012

よく生きるために 2


人生は大変なことが多いのに、自分で更に困難を増し加える必要はないでしょう。

ある人が語った、何気ない言葉です。

人生で、日常生活で、知らず知らずのうちに私たちは不必要な困難を、累積しているものだと気がつきます。

それはまさに ”断捨離” のようにして、物を整理すると同時に自分の心を整理し、身の周りと心の中にも気の流れを良くしたら、どれほど心地よい日々を送ることができるでしょうか。

Sunday, July 22, 2012

扶養義務 親子

日本で大騒ぎしている問題の中に、子供が高給取りであるにもかかわらず、親を扶養しないいくつかの例が問題になっていますね。
日本も欧米並みに、随分と個人主義になってきてしまったのですね。自分は面倒を見ないで、公共機関に任せてしまおうと考えるのですね。
日本は伝統的に、多くの子供達は大きくなったら親を楽にしてあげたいと思ったし、給料をもらえるようになったらそれが高給であろうとなかろうと、いくらかなりとも親に手渡したものでした。

アメリカでは、そのような思いを親も子も持つことはありませんね。
確かに老いてくれば、多くの人は自分を中心としてしか考えられなくなるし、そのような老人と一緒に暮らすのはどれほど大変なことか私も90歳の舅と生活していて、嫁さんの気持ちも良くわかると言うものです。

アメリカの多くの人たちははるか昔に、このような摩擦から身を引き、今では親の面倒を見ると言う風潮は、皆無となってしまったようです。

わが旦那は東洋人と結婚する人ですから、大家族に憧れる人であり、物分りの悪くなった親と住むのが当たり前と思うのですけれど、彼の億万長者の妹は差しさわりのないことには口出しも顔出しもするけれど、親が破産して困ってもびた一文たりとも差し出そうとはしないし、親を養老院に入れることばかりを考えています。
私からみれば、こうした女性がウイッチの様に見えますが(言い過ぎましてゴメンナサイ)、それがアメリカでは当然のことなのですから、彼女たちから見れば親と住んでいる我々が物好きをしているだけの話です。
こうした社会は、人間関係が基本的な家庭のレベルで切れてしまうではないですか。
家庭は愛の学校である。よい言葉があります。